予測できないもの2022-06-18

水は流れる

原発事故に関して最高裁は国の責任を否定した。予測が可能であったかどうかが争われたことに違和感がある。原発事故が発生した場合の被害規模を考えると、想定外の事が発生した場合のシミュレーションが本来は不可欠ではなかったのか。何故、この想定外シミュレーションが焦点にならなかったのか。

想定外シミュレーションをするには、原発事故が発生する可能性があることを前提にしなければならない。安全であるか、安全ではないのかという単純な白黒ではなく、より安全にすることはできるが、絶対安全はないという概念を日本人は受けいられないのではないかと危惧している。技術的に絶対安全が確保されなければ安心できないという気持ちが日本では強すぎる。そのため、今回の最高裁で争われたのは、予測できたかという技術の絶対安全となってしまった。技術には絶対安全はない。災害が多い地域にいる日本人は本来絶対的な技術などはないので、常に技術を磨き、災害の度に再興してきた強靭、レジリエントは社会を築いてきた。科学が発達したことでこの事を忘れてしまい、いつのまにか絶対技術があるかのように錯覚している。技術的に安全であるけれども安心できない事が最近いろいろな問題で言われているが、そもそも技術的に安全というのは、あくまでも既知の事に対して安全という事で、未知の事はわからない。それなのに安心したいという社会からの要望が強く、我々専門家までも安全ですと言ってしまう風潮はなんとかならないか。